◆2011年冬 第2弾 展覧会(12月)

■モダン・アート、アメリカン 新国立美術館 2011.12.11.Sun
会期も大詰め。来館者の多さと10章からなる展覧会の構成にぎょっとするも、すんなり楽しめる。アメリカのイメージに符号したからかもしれない。宗教がかったりコンセプト過多だったりせず、とかく深みがないのがいい。大自然と都会、わかりやすい構図、洗練さも執念も、多様性もほどほどなのだ。そのレベルに留めるのが、アメリカの大富豪らしいのかもしれず(ほかにどんな作品を所蔵しているのだろう)、何より万人向けの展覧会を企画する条件である。

記憶に残りやすい作品としては、J・ローレンス『大移動』シリーズ、『キャニン』やオキーフの一連の作品。個人的にはジョン・マリンの具体と抽象のバランス、ホラス・ピピンの黒色の効かせ方がほどよく感じた。

驚くべきは、ミュージアムショップの絵葉書がかなりの作品をカバーしていること。フォトフレーム入りのお手頃価格のポスターも充実し、さすが新国立美術館。私たち日本人もそろそろ、いきつけのバーならぬ、いきつけのギャラリーをもってもいいころではあるまいか。土産を買わなくても満足するような。


メタボリズムの未来都市  森美術館 2011.12.17.Sat
川添登編『メタボリズム』が世に出たのは、ケヴィン・リンチ『都市のイメージ』の出版と同年、1960年。車社会のアメリカで、ひとの知覚、パブリック・イメージを手がかりに都市を洞察したリンチと、焼け跡を目にし、文字通り新陳代謝なる構想に想いを馳せた日本人建築家たち。両者で、都市とひとに対する思考のベクトルは異なって当然である。
2011年、リンチの洞察はいまだ安定感と新鮮さを保つ。論文の結びにリンチは、デザインにあわせて市民の教育の重要性を説く。世界各国の政府が民衆により覆されていくさまをみた2011年は、私たちは大衆の破壊力の大きさを思い知った。だが破壊を超えるプロセス、再編や創造は簡単ではない。
一方の日本発メタボリズム。万博を経てその実際と限界が露呈したとき、次なるコンセプト日本の建築界は提示できなかった。復興をキーワードに今このムーブメントを見直しても、直接的に学べることはないだろう。これからの復興は、専門家とともに私たち大衆に求められるからだ。


■建築、アートがつくりだす新しい環境 東京都現代美術館 2011. 21.18.Sun
副題にある「これからの“感じ”」そのもの。退屈なオムニバスCDを聞いているようだ。ただひとつひとつの作品には罪はなく、美的に共感できるものもあった。その多くは建築家の作品ではなかったが。建築の場合、アイデアの重要さを超えてアウラの問題があるため、やむをえない結果だろうか。スタジオ・ムンバイが出展したスタディ模型、素材サンプルなどは、現地の風に少し吹かれるようでうれしい思いがした。バーレーンの漁師小屋もまたしかり。真摯な審美眼と批評眼が感じられる。
同時開催の美術展は、布、木、石をテーマに、見ごたえあるものであった。作品各々もさすがに秀逸で、マテリアルと作家の対話の重量が感じられるものもあった。


■シャルロット・ペリアンと日本 神奈川県立近代美術館 2011.12.23.Fri
坂倉さんの近美は雰囲気も規模もほどよく、ペリアン展にふさわしい。彼女が戦時中、剣持らの招聘で来日したことは知っていたが、近年まで長いこと日本で活躍していたとは知らず、知識にはなった。ただカタログを読むだけでも済んだかな。生身のモノの強さが展示になく、構成もメリハリに欠いた印象。あの時代、ペリアンがデザイン界でずかずかと活動していたというのは、まこと逞しいことのはずなのだが。