◆2011年秋 第1弾 ときにはいろいろ考える 映画祭

読書だけではもったいない秋。お盆明け以降の備忘録です。第一弾はドキュメンタリー映画祭。


■タケオ ダウン症ドラマーの物語
もしもタケオくんが身近にいたら、まずは戸惑うでしょう。彼の自由さを持て余しはしないかと恐れながら。改めて、自由さとはなんだろうと素朴に思うのです。こころに、からだに、感性や知識に絡めとられる不自由さ。考えすぎる不自由さ、考えることを放棄した不自由さ。不自由不自由と思ってしまう不自由さ。でもまずは頭で考えずに見てほしい映画です。少なくともタケオくんと一緒の間、ごちゃごちゃいわず、素直に自由でいられると思います。
映像作品としてひとつだけ欲をいえば、セネガルの風景をもっと見たかったです。意外なほど荒々しく、少し霞む大西洋岸。わらわらと人が集まり、やたら走って、笑っている。奏でるリズム、海のざわめき、そして身体に境界がない感じ。自由の源だと思いました。
2011年9月4日(日)@ポレポレ東中野


■遥かなる旅 大連・旅順 羽田澄子
自分の過去と今の町の重ね合わせの作業。生まれ育った大連・旅順で視たもの、感じたもの。旅順のことはなにも知らず、第一に勉強になった。印象的なのは羽田澄子が長いこと中国に育ち引揚げるころになって「ああここは中国なのだ」と気づいたというくだり。自分のいる環境や時代はなかなか認識できない。家に始まり家に終わるシーンはわかりやすい。大学時代の課題で「私の家」というレポートがあった。家は、いつまでもどこまでもついてくる。
自由工房の工藤充さんには卒業論文の折、お話を伺った。(今度読んでみよう。)羽田澄子さんが学んだ自由学園修士論文の題材である。支離滅裂な興味は毛玉のように絡まっているけれど、実はひとつづきの糸であるのかもしれない。
2011年9月18日(日)@ポレポレ東中野


■水になった村
今はダムの水に消えた徳山村。村人の最後の日々を間近に撮る。いい生き方をしてきたのだろう、老人たちの顔に刻まれた笑みの皺はとてもとても深い。山に入る、野菜を漬け込む、飯をたく、あらゆるシーンが途切れなく一体になった生活。「先祖から受け継いできたものを一代で食いつぶしてしまった」という老婆の言葉も、村の生活風景をみた後では重みが違う。映画館を出て、町がこれほど不調和な物質にみえたことはないかもしれない。
一方、半年ほど前に読んだ「黄色い雨」を思い出した。あの豊かな表現力には圧倒されたものだ。人と場所の結びつき、さらには場所を通じた現在と過去の結びつきは、かたちこそ違えども、説明できないくらいに強いのだ。
2011年10月15日(土)@ポレポレ東中野


山形国際ドキュメンタリー映画祭2011
第6回yoku arukuに掲載予定。作品の質はさることながら、観客の質、主催者の意識や町の雰囲気、多くの面で刺激を受けました。ここはひとまず鑑賞作品を列挙。
2011年10月8〜9日@山形市
・永遠のハバナ ☆☆☆☆☆
・3.11 A Sense of Home Films ☆☆
・アプタ ☆☆☆
・髪を切るように ☆
・イラン式料理本 ☆☆☆☆
・5頭の象と生きる女 ☆☆☆☆☆
・何をなすべきか ☆☆
・川の抱擁 ☆☆
・影のない世界 ☆☆☆