展覧会ウィーク

石元泰博展@神奈川県立近代美術館/0520SUN ☆☆☆
白黒フィルムを携え、父と鎌倉へ。小町通りでつまみ食い、地方ロケ風お食事処で昼からビール、みずみずしい緑の銭洗弁天…ここちよい一日でした。
桂の次元
桂離宮を面的に、グラフィカルにきりとる写真が美しい。(ただし構図はわりと一辺倒。)一歩ずつフレームとの距離をひろげ、石や苔のテクスチャが光へと変わる境界をたのしむ。一方、空間をとらまえる写真はあまり感心しない。トリミングで面的に再構成したり、本人も苦労した様子。構図がうまくないのかもしれないが、そもそも桂という日本の建築の、透視図との相性が悪いのかもしれない。
桂への眼
建築を志したものなら、「桂」という最低限の常識がある。タウトに発見され、丹下をはじめ日本の建築家たちにすりこまれてきた「日本的なるもの」。もはやコンテクストなしには桂をみることができないわたしたち。/石元の「桂」と見る眼は、いかほどだったか。アメリカに育った写真家が、ただ日本的なるものに陶酔してシャッターをきったとは想像しがたい。/タウト、上野伊三郎、モダニズムの建築家たち、そして石元。多くの貪欲な眼がこれほどふりそそがれた建築がほかにあるだろうか。そして、建築教育の果てに無垢に桂をうけとれない不自由さを思う。
[補足]鑑賞をはじめてすぐ、父に「桂って…」ときかれました。この展示会、桂の配置図もなければ、桂にまつわる言語の一切を省いています。「なんと不親切な」。ですが、「ガイジン」の眼も「ケンチクヤ」の眼もいれず、「イシモト」の、そして「フツウ」の鑑賞者の眼をみちびくことに意図があるのでしょう。


堀木エリ子展@スパイラル/0514MON ☆☆
空間と、建築と、アートとは似て非なるもの。光とテクスチャのオブジェを体感し、改めてかんじます。また、身体に直接作用するものの力とともに、無意識にうったえる文様の象徴性や意味合いの有用性をしりました。
ふと思い出す、昔理解に苦しんだ山口勝弘の環境芸術。難しい言葉が存在しえない堀木さんの直截的な表現を前に、アートの諸相を思いました。


◆イ・ブル展@森美術館/0516WED ☆☆
美とグロテスクさの均衡に、アートとしてのある種の健全さを感じました。製作過程を垣間見えるアトリエ展示が大変心地よい。もののの生まれるはじまりの、まだイキイキした手垢をみることができます。固着し、結晶化されたイメージはしばしばしんどいものです。