ふなうた 三浦哲郎 ☆☆☆☆☆

(お断り)酔って書いています。ゆえに駄文ですが本音です。
今年さっそく、☆五つ。こんなに詩情ある作家が日本にいたとは、知りませんでした。時を経て滲み出るもの悲しさと、深まる優しさとが溶け合ってました。
ただ残念ながら、私にはまだ、「時間を経ること」がわかっていません。流れに焦るばかりで、独り留まり、俯瞰することができないのです。先日訪ねた、エディトリアル・デザイナー・羽原粛郎さんの展示会を思いました。「無我の境地」羽原さんと仕事を共にし、この展覧会を紹介してくださった某氏は、朗らかに笑い、そうまとめました。たしかに、衒いも気張りもない、言葉と時間の醸成が在りました。三好達治島崎藤村宮澤賢治―先人たちの時間が、羽原さんの時間と重なり合う―枯淡を伴う不思議な透明感が滲み出ていました。もっとうまく、もっと美しく、と取り繕う若い安っぽさは微塵もありません。
三浦哲郎の世界は、老いることのもの悲しさと優しさの両方を感じさせます。おのれと他人を隔てる浸透膜のようなもどかしさと、ときにそれをするっと抜けるあたたかさも感じます。例えば「みのむし」「よなき」「たきび」等はすばらしい。
主として老いた男性であり、ときに老婆であり、私と同年代の女性でもある(28歳の私には「メダカ」も共感できる良作)。どうしてこうも作者は、私たちひとりひとりに成り代われるのでしょう。老いることをわかってはいない私が、老いた男の優しさと悲しさに共感してしまうのは、どう導かれてのことでしょう。三浦哲郎の描くつぶさな詩情のひとつひとつを、かみしめるようにして読みました。
構成の巧みさ、口語の間合いのよさは当然です。簡単に真似はできません。ただそれ以上に、彼の土地の息吹を深く感じました。昨晩、私は横浜の実家に帰り、父と彼の故郷・鹿児島の話をしました。いつか住みたい国についても、今私の住む東京についても話しました。いずれも、私の呼吸と感性を生んだ土地ではありません。やむなく寒空を見上げるほかありませんでした。

「みのむし」川端康成文学賞