文章読本 谷崎潤一郎 ☆☆

言葉は進化し、退化します。昭和九年に書かれた「文章読本」にはミイラ化した指摘も見られます。国語=日本を考える際、日本と西欧、和文と漢文の対置は、明解ですが、ややうっとうしい。

とはいえ、反省しました。正確に表現しようとするあまり、饒舌になる傾向があるので。(この読書感想文も!)谷崎は日本人本来の寡黙を尊び、「言語とそれが表現する事柄との間に薄紙一と重の隔たり」を保つよう促します。昨今の作家がやかましいのには、自己の世界への信頼、表現を徹底すべきという強迫観念、読者への不信があるのでしょう。

ひとつ、漱石の『倫敦塔』について。昨年、その凍りつく透明感に衝撃を受けた作品です。谷崎は「冷静な調子」の文章に分類し、こう表します。「淵に湛えられた清冽な水がじっと一箇所に澱んだまま鏡のような静かな面に万象の姿をありありと映している」。

以下、先日書いた反省文。

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息づかいと、身だしなみ
        
 自らの文をおもい、少し反省しています。男っぽい、岩肌をゆくような、「日経アーキ調」とまでいわれ、何度がっかりしたことでしょう。
 「文章読本」のなかで谷崎潤一郎は、言葉や文字による表現の限界を知ることを説き、その上でこう云います。「われわれは読者の眼と耳とに訴えるあらゆる要素を利用して、表現の不足を補って差支えない」。感覚的要素をぬきに、伝わる文は生まれません。
 言葉の息づかいが、耳に響くかどうか。それは、音読をすれば明らかでしょう。もとより、私たちが文を読むときには、気づかぬうち、心のなかで音読をしているものです。
 ただ、文が目にも語りかけるかは、みわけがたいかもしれません。私たちの目は、あまりに活字に毒されているためです。漢字の羅列にあやまった充足感を覚えることすらあります。ときにはゆったりと時間をとり、原稿用紙に手書きし、朱を入れる。すっかりご無沙汰となった書き方ですが、文の身だしなみを確かめるのには、役立つかもしれません。
 久々に万年筆をとりました。書き連ねた文字は、ゆがみ、踊って、目を背けたくなるほど不恰好です。けれども、少しずつ、言葉の息づかいと身だしなみを整え、書き手と読み手の間合いをとりたいと思いました。
         二〇一二年一月二四日

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「文章の調子は、その人の精神の流動であり、血管のリズムでもある」。性癖に同じく、簡単に己の文を変えることはできませんが、反省はすべきでしょう。長くなりました。饒舌にすぎるか。