あしたはアルプスを歩こう 角田光代 ☆☆

私には山の格好がよく似合う、そんな自負がある。空と大地を切り裂く滝へ、無数の虹を秘めた氷河へ、月面さながらの溶岩の平原へ。世界を凝縮した島、アイスランドでは予想以上に山の服装が活躍した。首都レイキャビクですらウィンドブレーカー姿だったから、町の格好は全くお呼びでなかった。
「山ガール」という言葉が出る前から私はひと揃えの山の装備を備えていた。流行る前だからあか抜けないのだが、私には気軽でよい。山歩きのきっかけとなったのが北イタリアのSuedtirol(南チロル)。著者が挑んだエリアとおおよそ同じである。
南チロルには、亡き友人宅に2回滞在した。どちらも数日間、真冬であった。アルコール度数六十を超える自家製シュナプス、それをふるまわれる有難迷惑。すぐお湯が切れるシャワー、旧式のキッチンで私はトマトを煮込む。食べる、読む、歩く、それ以外にすることはない。凍てつく牧草地を踏みしめる音、そこを影が長く伸びるのは満月のためだ。薄気味悪いINRIの十字架が山道を案内し、山間のシュラインは埃っぽさすら愛おしい。山歩きを励ますのは塩辛い肉、シュペックとハーブの効いた乾燥パン、PANNI。ワインは夕飯まで我慢して、アルプスの水を飲む。奇怪な山の形を青いインクでなぞるうち、山肌が夕日でピンクに染まる。名前はなんだったろうか。天国か、薔薇か、美しい言葉を冠していた。
綺麗すぎる想い出と、自然と生活が寄りそう情景。わたしのアルプスは、生活というあたりまえの幸せをはじめておぼえたところだ。山の格好をするたび、それを思う。