真昼のプリニウス 池澤夏樹 ☆☆☆☆

アルプスの話を書いて、しめっぽくなった。やさしく、けれども気高くありたい。
「真昼のプリニウス」の主人公は、その不器用な生真面目さが私に通じる。火山学者である彼女のアイスランド留学の計画、水泳をする何気ないシーン。そういったひとつひとつにも引き寄せられた。なにより、ものごとの本質と言葉の間をとらえようとする小説のテーマに、気骨を感じた。久々の良作との出会いであった。
小説には多くの語られた言葉が登場する。満月のたび、遠くメキシコで書かれる手紙、脈絡も意図もない寓話、失われた時の女性の手記、作為の真逆としての易。(各々をつくりこんだ著者の力量にまずは驚かざるを得ない。)ものを書くとき、自分と他者との境はいつ生まれるのだろう。言葉はいかに自分を離れ、語られた言葉となるのだろう。
旅には、ノートとスケッチブック、原稿用紙、数種類のペンや鉛筆を携える。必ず使うわけではない。選択肢を広げておく。ところがいずれも未だしっくりこないのだ。日記を書くたび、喉に小石が支える感覚に陥る。本質はそうではない、という違和感。
最近は、日記ではなく手紙を書く。祖父母や両親へ、友人へ、そして自分にも。一人旅の夜は長い。たいがい半ば泥酔状態で書くため、手紙は全く要領を得ず、洗練とは程遠い。けれども小石のような言葉ではない。グミのように安っぽいけれど、カラフルでぐにゃぐにゃと自由だ。私は手紙が好きなのだ。手紙を出せる人の数が、幸せのパラメータである。
かつて私からは手紙を返せない人がいた。南米の奥地、中東の町、南欧や北欧の村。手元の世界地図は役に立たなかった。きいたところもない名の僻地から、褪せた色の絵葉書が届く。美術品や町の様子が不器用に四角い画面にえがかれ、ひとことふたこと言葉が添えられている。
手紙の風体は全く違う。だが、メキシコからの手紙は、あの黄ばんだ絵葉書を思わせる。最後の手紙にはこうあった。「カラスの知性を磨いてほしい」。語られた言葉の続きは、小説では語られずに終わる。けれども私は、小説の主人公とメキシコの人の結末を、もう知っている。