あらためて教養とは 村上陽一郎 新潮文庫 ☆☆☆

祖父は英文学の学者だった。大学在籍中は戦時下で、英文学科に前後して哲学科も出たはずだから、私と同じ歳のころ、28ではまだ駆け出しの教師だったと思う。
声楽家顔負けの美声を、しっかりとした骨に響かせる。聞きなれたアメリカ英語とは異質のイギリス英語だった。革の鞄のような硬さ、沈考する胡桃のような含蓄。
最期のとき、朦朧として祖父が諳んじたのはシェイクスピアではなく漢詩で、私たち家族は大変驚いた。あらためて振り返ると祖父は、英語に費やすのと同等以上の時間を、書道に、島崎藤村遠藤周作に、あるいはオレンジの皮剥きや囲碁、散歩に充てていた。学者肌で世間知らずだった祖父は、ときに過剰なまでの神経を、書物から食物まで隅々にはりめぐらしていた。
大正教養主義には一世代遅れた祖父が 「古き良き教養人」の好事例かはわからない。ただ祖父の幻影は折に触れて私の前に現れる。職業人としての責務と努力を全うせよという無言の圧力への、本能的な警戒心によるのだろう。