赤朽葉家の伝説 桜庭一樹 ☆☆

「マコンド」だ、「ウルスラ」だ、と興奮を交えながら読み進めた。
結局がっかりしたのですが。(まあ暇つぶし程度には面白いです。)

                                                                                                                      • -

地方の町、旧家の女三代記。伝説的な物語性と戦後の日本社会の動きとが(あまり乳化されることもなく)描かれている。露骨にマルケスの「百年の孤独」を思わせるのだが、読み進めるうちに底の浅さに失望。挙句、後書きでマルケスはじめ、いくつかの参照小説がネタバレされる。しかも大きな物語を書けるという自信に満ち満ちていて、あきれる外なかった。以下、いくつか箇条書きにて。

・「お勉強しました」感
戦後の日本社会に否応なくのみこまれている女たち。たとえ物語が伝説的であっても、そこには社会の現実が控えている。それはよい。だが小説における物語性と社会性が分離したドレッシングのようで、ひとつのものとして消化されていない。結局「私、近現代史を勉強しました!」というとって付けた感じが溢れている。マルケスならそんな稚拙さはまずない。彼だったら、現実を物語へと気づかせることなく昇華してしまう。

・お粗末な結末
小説家たちは、物語の結末をどれほど鮮明に思い描いて書き進めるのか?私にとって最もわからないもののひとつだ。「赤朽葉」では、ひとつのミステリー的な展開が突如表れ、小説を終わりへと導く。それが実にチープ。主人公がちょっとしたヒアリングを行い、物語の死者たちをトレースしていくのだが、小学生の宿題程の浅さであり、「そんなんで物事片付いてしまうんだ?」と突っ込んでしまう。結局、この作家にはなにか描きたいものがあるのではなく、ただ書きたいんだなという感じを得た。世界観がないために、このように強制終了するわけである。

・朽ち果てない赤
「赤朽葉」というのはなんとも象徴的なネーミング。少女マンガ的なセンスだ。それはいいとして。。。赤く朽ちゆく葉に対し、リャマサーレスの「黄色い雨」を引き合いに出すのは残酷かもしれない。嗅覚や時間の感覚、あらゆる感覚が一体的になった深さ、衝撃。私たち、現代の日本人には、深く、大きい本当の物語は描けないのだろうか。そういう社会なのだろうか。ホンモノの小説家に私は出会っていないだけだと思いたい。