文明のなかの科学 村上陽一郎 ☆☆☆☆

カインとアベル
カインとアベルは昼食をともにしていた。明治通りの華屋なるB級中華料理屋。そこで30をとうに過ぎた大人ふたりが、名物の麻婆豆腐を口にするのも忘れ、ディスカッション、というよりは喧嘩を始めた。

「Why?」が口癖のカインは顎が割れ気味の優秀なドイツ人。一方、一度みたフォルムは忘れないと自負するアベルはチリの建築家だ。なにが発端か、アベルはカインの、いや、西欧の傲慢さを指摘しようとした。それがいささか感情的だったことは否めない。論理的なカインは猟犬に似た執拗さでアベルに噛みつく。しかし彼らは互いに急所をとらえられない。どうも二人の話が噛み合わない。

どちらかといえばアベルの西欧批判が私には真っ当に思えた。大のヨーロッパ贔屓でありながら、欧羅巴人の偏狭さに辟易し始めていたころだった。西洋建築史の本を何冊も諦め、サイードなどを読んでは酔っていた。しかしアベルが西欧を批判し、文化の多元性を主張すればするほど、南米の根本的な胡散臭さが漂った。本国で大学教授の座を半ば約束されたアベルは、土着ではなくラテンの血を持つエリートだ。辺境の西欧文化から中央の西欧文明への、劣等感と下克上の野心が鼻をかすめ、麻婆豆腐の辛味はすっかりあせた。

結局、私はバカバカしく思うに至る。「なんで白黒つけなきゃ気がすまないんだろう」と。ただ私が兄たちに異議を申し立てたところで、そんな「ぬるっ」とした考えは全く通用しない。となるとますますバカバカしく、私は聞き役に徹した。このときの違和感は今も消えない。

長くなった。村上陽一郎の本書は、私の「ぬるっ」とした視方、つまりはある種の「相対主義」、「寛容さ」の可能性を、1冊も費やし、歴史を追って周到に記述している。カインとアベルのような絶対主義者の前にあってはそれだけの用意が要るのだ。本書の結論は実にあっけないが、そこに至るまでの力量に感服する。

ところで、以前、梅棹忠夫「文明の生態史観」を読み、ずいぶん平和な見方だと思った。村上陽一郎を読んだ今、やはりあれは無邪気だと思う。村上が西洋近代主義の「轍」をなぞって論を展開せざるをえなかったのに対し、梅棹は「僕は僕の「叢」を行くんだい」といった感がある。彼の本を読みなおそうとは思えないが、サイードはもう一度読まなくてはならない。